チュウゴクモクズガニは、中国語では「中華絨螯蟹」と呼ばれる。「中国の絨毛のあるはさみを持つ蟹」という意味で、その名の通り、大きく発達した一対のはさみ状の爪を持ち、その回りにはびっしりと絨毛が生えている。和名はこの絨毛を藻屑に例えている。「毛蟹」、「老毛蟹」と呼ぶ地域もある。同属異種の日本のモクズガニも、絨毛によって「ケガニ」と呼ぶ地域があるが、同じ発想である。はさみの先端には掻きとる動作に適した黒い蹄状の爪がついている。
主産地の長江沿いでは、はさみは金色、毛は黄色い色をしているが、四角い形の甲羅の色は青緑色をしている。調理のために、蒸したり煮たりすると、鮮やかな柿色に変わる。甲羅の前から横にかけて、ノコギリの歯のようなとげが4対ある。大型のカニであり、大きい個体では甲幅(甲羅の幅)が8cm程度になる。
淡水性のため、中国では「河蟹」、「清水蟹」とも呼ばれ。幼生は海水から汽水域で育つため、親蟹は雄、雌とも産卵のために河口や海岸に移動する必要がある。主に秋に、河口で生殖したのち、雌が海水域に移動して産卵する。腹部は薄い灰色で、7節に分かれており、雄は三角形、雌は俵型をしている。
中国で最も知られている呼び名は「大閘蟹」(ダージャーシエ、上海語ドゥザッハ)であり、上海でも香港でも台湾でも、この名で呼ばれている。産卵のために下ってくるところを、堰止めて取るためとも、「閘」は煮るという意味の「煠」の訛とも言われるが、語源は定かでない。
輸送中に動き回ると、はさみで傷つけあったり足が取れたりして傷が付くため、藁や紐で十文字に縛って生きたまま売られる。
海の蟹と比べると小さいため、脚の肉などは食べにくく、量も少ないが、甲羅の中の内子や蟹味噌の味はまったりと濃厚であり、美味である。栄養価としては、タンパク質、ビタミンB12を豊富に含む。
上海蟹の旬は、「九円十尖」(九圓十尖 / 九圆十尖)という言葉で言い表されている。これは、太陰暦(旧暦)の9月には腹が丸い雌蟹がおいしく、10月には尖った雄蟹がおいしい事を言っている。太陽暦ではほぼ一ヶ月ずれるので、10月は雌の、11月は雄の旬である。10月ごろは雌が甲羅の中にオレンジ色の内子(中国語 蟹黄 xièhuáng)を持っており、これがほくほくしてうまい。また、陽澄湖の周辺では「西風響、蟹脚癢」という諺があり、冬の西風が吹いてくると、雄蟹の脚がむずむずする(動きが活発になる)という。これは生殖時期の到来を言っており、雄の味噌(中国語 蟹膏 xiègāo、膏脂 gāozhī)と肉がうまくなる時期でもある。チュウゴクモクズガニの蟹味噌は灰色ではなく黄色をしている。チュウゴクモクズガニは肺気腫や気胸を引き起こす肺臓ジストマの一種、ベルツ肺吸虫(Paragonimus pulmonalis (Baelz, 1880))の中間宿主で、加熱すれば死ぬので衛生上問題ないが、生の状態で甲羅を割ると、みそや体液などと共に飛び散って、皮膚や食器などに付着し、生きたまま人体に入る可能性があるので、注意しなければならない。
蒸し蟹
大きさによるが、藁で縛ったままの状態で蒸し器に入れて、15分-20分蒸し上げる。蒸し上がったら、藁を切って、皿にのせて食卓に出す。生姜の糸切りを入れた、鎮江産などの黒酢で味を付けて食べる。中国医学の考えでは、蟹は体を冷やす性質の食べ物であり、体を温める作用のある生姜と酢で、バランスをとることを目的としている。本来の蟹肉の味を楽しみたければ、酢を付けずに食べれば良い。専門店では食べ終わった頃に、お茶を入れたフィンガーボールが出るので手を洗う。フィンガーボールにはエンドウの芽、コリアンダー、菊の花と葉などを浮かべる場合もある。最後に生姜と砂糖を加えた、口直しの甘い茶が出される店もある。通常の食べ方は、甲羅を下にして、尻側から開いて、まず甲羅の中の内子や蟹味噌を味わう。甲羅の次に、腹の回りの肉、最後に脚の肉という順序が一般的である。
酔蟹
上海料理の一つで、チュウゴクモクズガニを生で老酒(紹興酒)に漬けたもの[4]。1年-2年目の小さい蟹を、白酒に塩、花椒、ウイキョウ、丁字を混ぜた液に漬けたもの。ガラス瓶に入れて密封し売られている。殻を咬み割って食べるが、生の身に酒の味がしみこみ、なめらかな食感の食品となる。ベルツ肺吸虫が寄生していても、高い濃度のエチルアルコールで死ぬとも言われる。しかし酔蟹からウェステルマン肺吸虫に感染する例も報告されているので生食には注意が必要であり、安全を期すなら酔蟹もスープ料理など加熱調理したものを食べることが望ましい。特に日本産のモクズガニによる代用品の生食は大変危険である。漬けたまま長く放置すると、身にカルシウム分などが付着し、結晶化してまずくなる。
蟹黄小籠包
雌蟹の内子を中の肉餡に加えた小籠包。上海は輸出の窓口として有名であるが、様々な料理への応用は、香港で先に行われたため、バリエーションも広く、洗練された創作料理も少なくない。なお、必ず生きた蟹を食用にするのは、カニは魚介類と同様に、死ぬと腐敗の過程でヒスタミン生成菌の作用でタンパク質からヒスタミンが生じ、加熱しても分解されないので、食べるとアレルギー様のヒスタミン中毒を起こすためである。また、タンパク質とタンニン酸が結びついて消化が悪くなるので、同じ秋が旬の柿とは食い合わせが悪いと言われている。
上海蟹に関する伝説
数千年前に、漢族の祖先が江南地方に定住し、稲を植え、漁労をして、徐々に豊かな土地を切り開いた。しかし、江南地方は土地が低いため、いったん雨が降れば水害が起きやすく、しかもこのあたりには、2本のはさみと8本の足を持つ虫がいて、水田に入り込んで、稲を喰ったり、はさみで人を傷つけたりしたので、人々は「夾人虫」(きょうじんちゅう)と呼んで、まるで虎や狼のように恐れていた。
夏王朝を建てたと言われる、治水に秀でた大禹(だいう)は、巴解(はかい)という勇猛な男を陽澄湖に派遣して、河口に通ずる水路の工事を命じた。工事が始まり、夜に火を焚くと、これを見た「夾人虫」の大集団が泡を吹きながら集まってきて、工事にやってきた作業員達を襲い、血生臭い戦いが一晩続いた。朝になって、「夾人虫」はやっと水中に撤退したが、多くの作業員が殺されてしまった。
「夾人虫」がいると工事ができない事に困った巴解は、思惑を巡らした結果、一計を案じ、堀を巡らせた城を築き、堀には湯を入れた上で、夜に火を焚いた。「夾人虫」はまた集団でやってきたが、思惑通り湯の入った堀に落ちて死んだ。次から次にやってくる「夾人虫」を相手に、どんどん堀に湯を足して殺してゆくと、赤い色に変わった「夾人虫」は、甲羅を開いて、いい香りになった。これを見た巴解が手にとって食べてみると、おいしかったので、他の仲間にも食べるように薦めた。こうして、「夾人虫」を退治する方法を考えた巴解は、勇猛な男とあがめられ、「夾人虫」は「巴解」の足元にいる虫という意味で「蟹」と呼ばれるようになった。また、この街は、巴城と呼ばれるようになった。巴城は、現在では昆山と呼ばれている。
なお、煮殺したという話の外に、湖の周りの草を焼き払って、焼き殺したという話もある。